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    渋沢栄一とは何をした人か?生涯・功績・埼玉ゆかりの地を解説

    2024年7月3日、財布の中の1万円札が静かに変わった。「福沢諭吉」から「渋沢栄一」へ——40年ぶりの交代だった。

    新紙幣の肖像は、埼玉県深谷市の農家に生まれた一人の男だ。日本初の銀行を設立し、生涯で約500社の企業設立に関与した実業家。「日本資本主義の父」と呼ばれる人物の名は、今やあらゆる世代に届いている。

    この記事では、SAITAMAZINEが渋沢栄一の生涯・功績・思想を整理しながら、深谷市のゆかりの地まで案内する。「渋沢って、埼玉」——そのことを誇れる一本にしたい。

    渋沢栄一とはどんな人?

    渋沢栄一は、1840年(天保11年)に現在の埼玉県深谷市血洗島に生まれ、1931年に91歳で亡くなった実業家だ。

    幕末の農村に生まれながら一橋家の家臣となり、パリ万博を経て大蔵省官僚になり、33歳で政府を辞して民間実業家へ転身した。その後の人生で、日本の経済・教育・社会事業に膨大な足跡を刻んだ。

    基本プロフィール

    生年月日1840年2月13日
    出身地武蔵国榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深谷市)
    没年月日1931年11月11日(享年91歳)
    主な称号「日本資本主義の父」「近代日本経済の父」
    代表著作『論語と算盤』(1916年)
    設立関与企業約500社
    支援社会事業約600件

    「日本資本主義の父」と呼ばれる理由

    なぜ500社もの企業設立に関わりながら、財閥を作らなかったのか。それが渋沢栄一を他の明治の実業家と決定的に分かつ点だ。

    三菱の岩崎弥太郎は「企業を支配する」ことで財閥を築いた。渋沢は逆に、株式会社制度と銀行システムを使って社会全体の富を増やす仕組みを作ろうとした。

    「合本主義」——多くの人がお金と知恵を出し合い、共同で事業を興すという発想が、現代の資本主義の骨格を日本に根付かせた。

    生い立ちと転機

    幕末〜明治という激動期に、農家の子がどう変わったか。渋沢栄一の人生は「断念の連続が扉を開けた」軌跡だ。

    深谷市血洗島の農家に生まれる

    渋沢栄一が生まれた1840年の血洗島は、藍玉の産地として知られる農村地帯だった。父・市郎右衛門は養蚕と藍玉の製造・販売を手がける富農で、村で1、2を争う家格を持っていた。

    栄一は7歳頃から従兄・尾高惇忠の私塾に通い、『論語』をはじめとする四書五経を学んだ。14歳の頃にはすでに単身で藍葉の仕入れに出かけるほどの商才を見せていた。

    17歳のとき、身分だけで支配される代官所の理不尽に激しく反発した。この怒りが誰もが対等に経済活動できる社会を作るという志に変わっていく。

    尊王攘夷に傾倒・高崎城乗っ取り計画

    ペリー来航後、23歳の栄一は従兄らと高崎城乗っ取り計画を立てた。高崎城で武器を調達し、横浜の外国人居留地を焼き討ちにするというものだった。

    しかし惇忠の弟・尾高長七郎の必死の説得によって計画は中止される。この「断念」が、志士から実業家への大転換の出発点となった。

    一橋慶喜への仕官

    計画中止後、京都へ出奔した栄一は一橋家の家臣・平岡円四郎と再会し、仕官を勧められた。1864年に農民身分から武士として仕官。歩兵の募集・財政改革で頭角を現し、慶喜の信頼を得ていく。

    パリ万博視察で資本主義を学ぶ

    1867年、27歳で初めてヨーロッパの土を踏んだ。議会・証券取引所・銀行・工場が社会の隅々まで行き渡ったフランスの姿に衝撃を受け、株式会社制度と近代資本主義を体得した。

    明治維新後は大蔵省に入省し、郵便制度・鉄道・富岡製糸場の整備に関わるが、33歳で政府を辞し、民間実業家への転身を選んだ。

    関連ページ:武蔵国とは?一宮から読み解く埼玉の正体、中心から外れた理由

    実業家としての功績

    「何をした人か」への最も端的な答えは3つの数字に凝縮される——500社・600事業・91年

    日本初の銀行「第一国立銀行」設立

    1873年(明治6年)、第一国立銀行(現・みずほ銀行)を設立した。当時の日本に近代的な銀行はなく、産業を育てるための資金調達の仕組みがなかった。渋沢は透明な経営と信用の積み重ねで「見ず知らずの人間にお金を預ける」という文化的な壁を崩した。

    渋沢が関与した銀行・保険会社は47社にのぼり、現在の三大メガバンクや多くの地方銀行の前身となる金融インフラを構築した。

    500社の企業設立に関与

    渋沢栄一が関わった企業は約500社。現在も続く名だたる企業が並ぶ。

    分野主な関与企業
    金融みずほ銀行(第一国立銀行)、東京海上日動火災保険
    インフラ東京ガス、JR東日本(日本鉄道)、東京電力
    製造・流通王子ホールディングス(抄紙会社)、渋沢倉庫
    食品サッポロビール(開拓使麦酒醸造所)、キリンホールディングス
    流通・サービス帝国ホテル、東武鉄道
    金融インフラ東京証券取引所(東京株式取引所)

    注目すべきは、これだけの企業に関わりながら個人の財産を増やすことを目的にしなかった点だ。関与した企業の時価総額は現在の換算で29兆円超ともいわれるが、渋沢個人が蓄積した財産はその規模に見合ったものではなかった。

    600の社会事業・教育機関への支援

    渋沢栄一が関与した社会事業は約600件。日本赤十字社・早稲田大学・日本女子大学の設立支援のほか、養育院の院長を60年間務め続けた。

    支援した教育機関は164校にのぼる。「稼ぐことと社会を良くすることは矛盾しない」——その信念が、500社と600事業という二つの数字を一人の生涯に刻ませた。

    民間外交とノーベル平和賞候補

    76歳で実業界を引退後も、日米・日中関係の改善のために民間外交に奔走した。1926年・1927年の2年連続でノーベル平和賞候補となった。「経済人にとどまらない」渋沢の広がりを示す事実だ。

    道徳経済合一説と名言

    「論語と算盤」の思想

    渋沢栄一の思想の核心は、1916年刊行の著書論語と算盤に凝縮されている。「論語」(道徳・倫理)と「算盤」(商売の損得)という一見相反する二つを「両立させるべきだ」と説いた。これが「道徳経済合一説」だ。

    「不正な方法で稼いだ利益は長続きしない。社会の信頼を得て、正しい方法で豊かになるべきだ」——この考えは、現代のESG経営やSDGsの思想と驚くほど重なる。約100年前の言葉が2020年代のビジネス文脈でも読まれ続けている理由がここにある。

    渋沢栄一の名言3選

    「夢なき者は理想なし、理想なき者は信念なし——」(夢七訓より)→ 志と行動を一本の線でつなぐ言葉。深谷市の小学校では児童全員が暗唱する。
    「道徳と経済は両立する。一方だけを追っては長続きしない」→ 道徳経済合一説の本質。私腹を肥やすより社会全体を豊かにする道を選んだ生涯を象徴。
    「細心にして大胆なれ」→ リスクを取りながら慎重さを失わない。500社に関与しながら財閥を作らなかった経営姿勢。

    渋沢栄一と埼玉の関係

    渋沢栄一が設立を主導した日本煉瓦製造会社の工場は深谷市内に置かれ、ここで作られた深谷産レンガが東京駅の建設に使われた。渋沢は初代会長も務めている。

    新1万円札の裏面に東京駅が描かれているのはこの縁による。「表の渋沢栄一」と「裏の東京駅」は、深谷産レンガという糸でつながっている。

    深谷市が渋沢栄一を誇る理由

    深谷市の小中学校には副読本渋沢栄一翁 こころざし読本が全児童・生徒に配布されている。市内の八基小学校では「夢七訓」を全員が暗唱できる。深谷駅の外観は東京駅を模したレンガ造りのデザインだ。

    論語の里エリアとは

    「論語の里」は、渋沢栄一が幼少期を過ごした血洗島周辺のゆかりスポット群の名称だ。旧渋沢邸「中の家」・渋沢栄一記念館・尾高惇忠生家が徒歩・自転車で巡れる範囲にまとまっている。

    深谷駅から約6km。コミュニティバス「くるりん」(土日祝日運行)でアクセスできる。観光地としての整備より農村の景色が残っているからこそ、渋沢が育った文脈がリアルに伝わる場所だ。

    旧渋沢邸「中の家(なかんち)」

    栄一の生まれた家の通称。現存する主屋は1895年(明治28年)上棟。西奥の1階10畳間は「栄一が帰郷した時のために造られた部屋」として残り、外側から見学できる。

    帰省のたびに食べた「煮ぼうとう」のように、渋沢は死ぬまで血洗島の人間だった。歴史の教科書には書かれていない温度を、この部屋は伝えてくれる。

    所在地埼玉県深谷市血洗島247-1
    アクセスJR高崎線「深谷駅」からコミュニティバス約20分
    入館料無料
    開館時間9:00〜17:00
    休館日月曜日(祝日の場合は翌平日)

    渋沢栄一記念館

    1995年11月11日(渋沢の祥月命日)に開館。最大の見どころは渋沢栄一アンドロイドによる講義だ。2020年完成。「道徳経済合一説」について直接語りかけてくれる。要予約・人数不問で参加できる。

    所在地埼玉県深谷市下手計1204
    アクセスJR高崎線「深谷駅」からコミュニティバス約20分
    入館料無料
    開館時間9:00〜17:00
    休館日月曜日(祝日の場合は翌平日)
    アンドロイド講義要予約(電話:048-587-1100)

    誠之堂(せいしどう)

    1916年(大正5年)、渋沢の喜寿を祝い第一銀行の行員たちが私財を集めて建てた洋館。煉瓦造り・英国チューダー様式。国指定重要文化財。

    行員が上司の喜寿を祝うために私財を集め洋館を建てた——その事実が、渋沢の人望をそのまま伝えている。

    所在地埼玉県深谷市起会110(大寄公民館内)
    アクセスJR高崎線「深谷駅」から車で約10分
    入館料外観見学は無料(内部見学は要問合せ)
    開館時間外観は常時見学可

    尾高惇忠生家

    渋沢栄一に論語を教えた従兄・尾高惇忠の旧宅。幼少期の「尾高塾」であり、高崎城計画の密議が行われた「密議の間」(2階・現在非公開)がある。

    惇忠はその後富岡製糸場(世界文化遺産)の初代場長を務めた。二人の深谷の縁者が近代産業の礎を共に作ったことになる。

    所在地埼玉県深谷市下手計236
    アクセスJR高崎線「深谷駅」からコミュニティバス約20分
    入館料無料
    開館時間9:00〜17:00
    休館日月曜日(祝日の場合は翌平日)

    関連ページ:深谷市の住みやすさは?渋沢栄一の出身地・深谷ねぎの街の治安・家賃を徹底解説

    新1万円札に選ばれた理由

    選定の背景と意義

    2024年7月3日発行の新1万円札。40年ぶりの肖像変更だ。財務省の選定基準(精密な写真・品格・国民への知名度と業績)をすべて満たした上で、「傑出した業績を残し日本の近代化をリードした」という評価が決め手となった。

    過去の1万円札は聖徳太子(政治家・宗教家)、福沢諭吉(思想家・教育者)だった。渋沢栄一は日本の紙幣の歴史上初めて選ばれた「経済人」だ。

    新1万円札の発行は、深谷市への観光客増加という直接的な経済効果も生み出した。「渋沢栄一の出身地・深谷市」を知らなかった人が、新紙幣をきっかけに現地を訪れる流れが生まれている。

    深谷発・渋沢栄一ゆかりの土産・グルメ

    渋沢栄一が帰省のたびに食べたという煮ぼうとうは、深谷ネギ入りの郷土料理だ。市内の飲食店で提供中。生産量全国上位を誇る深谷ネギのとろける甘さが特徴だ。

    土産では渋沢栄一サブレ・「論語」の言葉を刻んだ最中など、記念館周辺の店舗で入手できる。

    関連ページ:埼玉の人口はなぜ増え続けるのか?市町村ランキングと人口推移から見える「首都圏最大の住宅県」

    まとめ

    埼玉県深谷市の農家に生まれた渋沢栄一は、幕末の混乱の中で農民から武士となり、フランスで資本主義と出会い、明治の日本に銀行・株式会社・社会事業の仕組みを根付かせた。

    約500社の企業設立と約600件の社会事業——その両方を同じ人間が成し遂げた背景には、「稼ぐことと社会を良くすることは矛盾しない」という一貫した信念があった。

    旧渋沢邸「中の家」・渋沢栄一記念館・誠之堂・尾高惇忠生家——どの場所も、生きた人間としての栄一に近づける場所だ。半日あれば4カ所を巡ることができる。

    「渋沢って、埼玉」——1万円札を手にするたびに気になったなら、まず深谷駅に降りてみてほしい

    ライター
    たけと

    兵庫県神戸市出身。都会の喧騒を離れ、たどり着いた新天地・蒲生(越谷市)で第二の人生を謳歌する元商社マン。 長野出身の妻、そして年子(0歳・1歳)の育児に奮闘しながら、越谷の心地よさを日々実感しています。満洲の餃子をこよなく愛する、自称・越谷の関西代表。

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