中山道・埼玉の9宿とは?蕨から本庄まで75kmの歴史と歩き方

蕨、浦和、大宮、上尾、桶川、鴻巣、熊谷、深谷、本庄。
埼玉県内でいま「駅前の中心市街地」と呼ばれている場所は、そのほとんどが同じ一本の道の上に並んでいる。中山道だ。
江戸と京都を内陸で結んだこの街道の埼玉区間は、戸田の渡しから神流川まで約75km。ここに9つの宿場が置かれた。
天保14年の記録を開くと、9宿の顔つきはまるで違う。人口最多は本庄宿の4,554人、最少は上尾宿の793人。ところが旅籠の数は上尾41軒に対して熊谷19軒——人口と宿泊施設の数が逆転している宿がある。
数字を並べると、街の性格が見えてくる。SAITAMAZINEが埼玉9宿を、歴史と現在の両面から記録する。
中山道とは

中山道は、江戸幕府が整備した五街道のひとつだ。江戸・日本橋を起点に、京・三条大橋まで内陸を通る。全長は135里24町8間、およそ532km。
江戸五街道のひとつ
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、翌年から江戸を起点とする街道整備に着手した。東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道。これが五街道だ。
幕府は各宿に伝馬朱印状や伝馬定書を与えて宿駅を定めた。隣の宿から運ばれた荷物や書状は、宿駅で人馬を交代して次へ送る。この仕組みを宿駅伝馬制という。中山道の宿には「50人・50疋」の人馬常備が課された。
宿場に置かれたのは、大名や公家が泊まる本陣、その予備である脇本陣、一般の旅人が泊まる旅籠、公用の荷物を継ぎ立てる問屋場。埼玉9宿もすべてこの構成を持っている。
東海道との違い
中山道は69の宿場を数える。ただし整備の順序としては、慶長7年(1602年)から板橋宿〜守山宿までの67宿が順次置かれ、草津宿・大津宿は東海道と共有する区間にあたる。
東海道と比べたときの中山道の性格は、川にある。東海道には大井川をはじめ、増水で何日も足止めされる「川止め」の難所が続いた。中山道にも川はあるが、長期の川止めを起こす河川は比較的少ない。
このため中山道は「姫街道」とも呼ばれた。京都の宮中から将軍家に嫁ぐ行列——皇女和宮が江戸へ下ったのもこの道だ。
ただし「関所がなかった」わけではない。碓氷や木曽福島に関所が置かれ、通行の取り締まりは行われている。中山道が選ばれた理由は、関所の有無よりも川の安定性にあった。
「中山道」という表記
戦国期までは山道、東山道と呼ばれた。江戸時代には中山道・中仙道の両方が使われたが、享保元年(1716年)、新井白石の意見を入れた幕府の通達で「中山道」に統一されている。
読みは「なかせんどう」。庶民のあいだでは木曽街道、木曽路という呼び方も長く使われた。渓斎英泉と歌川広重が描いた浮世絵の連作が『木曽海道六十九次』という題を持つのは、この俗称による。
埼玉区間は約75km・9つの宿場

中山道の埼玉県内の区間は、戸田で荒川を渡るところから始まり、上里町・勅使河原の神流川で終わる。
戸田の渡しから神流川まで
国土交通省関東地方整備局の資料によれば、中山道は戸田で荒川を渡り、蕨・浦和・大宮・桶川を通る。鴻巣の吹上から熊谷手前の久下までは荒川の土手沿いを進み、本庄の勅使河原を経て県外へ抜ける。戸田から本庄までは約19里、およそ75kmだ。
ここで押さえておきたいことが2つある。
ひとつは、中山道が県内で川を渡るのは戸田の渡しだけだという点。荒川は熊谷から下流でたびたび流路を変える「荒ぶる川」だったため、街道は川を渡らず、土手沿いを北上するルートをとった。
もうひとつは、県境が利根川ではなく神流川だという点。武蔵国と上野国の国境は神流川で、現在も埼玉県と群馬県の県境になっている。渓斎英泉が本庄宿を描いた浮世絵の題も『本庄宿 神流川渡場』だ。
9宿の規模を数字で比べる
天保14年(1843年)、幕府の道中奉行所は五街道の宿場を調査し『中山道宿村大概帳』にまとめた。人口、家数、本陣・脇本陣・旅籠の軒数、町並みの長さまでが記録されている。
埼玉9宿の数字を並べる。
| 宿場 | 現在の市区 | 中山道の順 | 日本橋から | 町並み | 人口 | 家数 | 本陣/脇本陣 | 旅籠 |
| ①蕨宿 | 蕨市 | 2番目 | 約19km | 10町(約1.1km) | 2,223人 | 430軒 | 2/1 | 23軒 |
| ②浦和宿 | さいたま市浦和区 | 3番目 | 約24km | 10町42間(約1.2km) | 1,230人 | 273軒 | 1/3 | 15軒 |
| ③大宮宿 | さいたま市大宮区 | 4番目 | 約30km | 9町30間(約1.0km) | 1,508人 | — | 1/9 | 25軒 |
| ④上尾宿 | 上尾市 | 5番目 | 約38km | 10町10間(約1.1km) | 793人 | 182軒 | 1/3 | 41軒 |
| ⑤桶川宿 | 桶川市 | 6番目 | 約42km | 9町半(約1.0km) | 1,444人 | 347軒 | 1/2 | 36軒 |
| ⑥鴻巣宿 | 鴻巣市 | 7番目 | 約50km | 17町(約1.9km) | 2,274人 | 566軒 | 1/1 | 58軒 |
| ⑦熊谷宿 | 熊谷市 | 8番目 | 約66km | 10町11間(約1.1km) | 3,263人 | 1,715軒 | 2/1 | 19軒 |
| ⑧深谷宿 | 深谷市 | 9番目 | 約78km | — | 1,928人 | 525軒 | 1/4 | 80軒 |
| ⑨本庄宿 | 本庄市 | 10番目 | 約89km | — | 4,554人 | 1,212軒 | 2/2 | 70軒 |
※『中山道宿村大概帳』(天保14年)による。距離は測り方により差がある。
この表からは、教科書的な説明では出てこないことが3つ読み取れる。
人口と旅籠の数は比例しない。 熊谷宿は人口3,263人で9宿中2位、家数1,715軒は最多クラス。それなのに旅籠は19軒しかない。熊谷は宿泊業ではなく、絹屋・綿屋といった商いで成り立っていた街だ。逆に上尾宿は人口793人で9宿最小なのに、旅籠は41軒ある。
上尾に旅籠が集中した理由は距離にある。 日本橋から上尾までおよそ10里。夜明け前に江戸を発った旅人が、1日歩いてちょうど宿を探す距離が上尾から桶川のあたりだった。宿場の規模ではなく、江戸からの距離が旅籠の数を決めている。
本庄宿は別格。 人口4,554人・家数1,212軒は、中山道69宿のなかで最多。街道の宿というより、利根川水運の集積地としての規模だ。
埼玉9宿の歴史と現在

9宿を江戸側から順に見ていく。各宿とも「江戸期の姿」「現在の見どころ」の順にまとめた。目当ての宿場から読んでもらってかまわない。
①蕨宿——戸田の渡しの手前で旅人が滞留した宿
蕨宿は日本橋から2番目、約19kmの宿場だ。荒川の「戸田の渡し」の手前という立地が、この宿のすべてを決めている。
当時の荒川は戸田川と呼ばれた。平水時の川幅は55間、およそ100m。ところが大水が出ると川幅は1里(約4km)にまで広がり、渡ることができなくなる。危険とみなされた夕刻以降も川留めになった。
上方から江戸へ下ってきた旅人は、渡し場の一歩手前で足を止めるほかない。翌朝早くに出立する客が多かったという。
そのため蕨宿には本陣が2軒あった。さらに東隣の塚越村にも本陣が置かれ、「二の本陣」「東の本陣」と呼ばれている。1つの宿場に実質3つの本陣機能。川留めを前提とした収容力の確保だった。
天保13年の『中山道戸田渡船場微細書上帳』によれば、渡船場の家数は46軒、人口220人余。うち船頭8人、荷揚げの人足31人。渡し船は13艘あった。街道の宿場だけでなく、川そのものが雇用を生んでいた。
町並みは10町、約1.1km。周囲は用水堀に囲まれていた。人口2,223人は浦和宿の1,230人の約1.8倍で、当時の蕨は浦和より大きな町だった。
蕨宿を語るうえで外せないのが飯盛旅籠の話だ。客引きが強引で旅人が難儀したため、江戸末期には旅人が安心して泊まれるよう、平旅籠による講——今でいう旅館組合——が組織されている。
現在の蕨市は面積約5.11km²、日本一面積の小さな市として知られる。旧中山道沿いには蕨市立歴史民俗資料館があり、蕨宿の模型、本陣上段の間、旅籠や商家の再現、そして蕨の主産業だった綿織物の機織機が展示されている。隣接して本陣跡が復元されている。
| 散策起点 | 蕨市立歴史民俗資料館(蕨市中央5-17-22) |
| アクセス | JR京浜東北線「蕨駅」西口から徒歩約15分 |
| 開館時間 | 9:00〜16:30/月曜休館(祝日の場合は火曜も休館)/入館無料 |
| 主な見どころ | 蕨本陣跡・歴史民俗資料館分館(明治20年築の織物買継商の家)・和樂備神社 |
| 浮世絵 | 渓斎英泉『木曽街道 蕨之驛 戸田川渡場』 |
②浦和宿——宿場より市場で栄えた

浦和宿は日本橋から3番目、約24km。旅籠は15軒で、埼玉9宿のなかで最も少ない。
数字だけを見れば小さな宿場だ。しかし浦和は、宿場としてよりも市場町として機能していた。月の2と7の付く日に開かれる「二・七の市」が月6回。上町・中町・下町が交代で市を立て、日用雑貨、穀物、農具、薪炭、木綿布などが売られた。旅人を泊めるより、周辺の村を集める場所だったということだ。
浦和宿の興りは徳川家の鷹狩りにあるとされる。当時の中心地だった常盤町には、将軍家の鷹狩りの休泊所である「浦和御殿」が置かれていた。ただしこの御殿は、鴻巣御殿が建てられたのちの慶長16年(1611年)頃には廃止されている。跡地は明治期に浦和地方裁判所となり、現在は赤レンガ堀を残す常盤公園だ。
御殿が置かれる以前、浦和は調神社と玉蔵院の門前町だった。
「浦和のうなぎ」の起源も宿場時代にさかのぼる。浦和宿を訪れる旅人に、浦和近郊で捕れたうなぎを提供したのが始まりといわれる。当時の周辺には沼地が広がっていた。
その調神社は、狛犬がなく代わりに兎の石像が置かれている珍しい神社だ。「調(つき)」と「月」の連想から、月の使いとされる兎が置かれたという。
明治期に埼玉県が成立すると、浦和には県庁と教育機関が集まった。全国から学生が集まり、文教都市としての性格が固まる。旅籠15軒の小さな宿場が、県の中枢になった。
| 本陣跡 | 仲町公園(さいたま市浦和区仲町) |
| アクセス | JR各線「浦和駅」から徒歩圏 |
| 主な見どころ | 仲町公園(本陣跡)・調神社・常盤公園(浦和御殿跡)・玉蔵院 |
| 浮世絵 | 渓斎英泉『木曽路之駅 浦和宿 浅間山遠望』 |
③大宮宿——脇本陣9軒は69宿で最多
大宮宿は日本橋から4番目、約30km。この宿場には、中山道69宿を通じて他に例のない数字がある。
脇本陣9軒。本陣1軒に対して脇本陣が9軒という構成は、69宿のなかで最多だ。問屋場も4箇所ある。一方で人口1,508人、旅籠25軒と、宿場そのものの規模は9宿の中位にすぎない。
つまり大宮宿は、一般の旅人を泊める機能より、大名や公用の通行を受け止める機能に大きく振れていた宿だった。紀州徳川家の鷹場本陣が置かれていたことも、その性格を示している。
大宮宿のルーツは氷川神社にある。武蔵国一宮である氷川神社の門前に市が立ち、それが宿場へ発展した。「大宮」という地名自体が「大いなる宮」を意味する。
中山道と氷川神社の関係には、興味深い経緯が残る。当初の中山道は氷川神社の参道と重なるルートを通っていたが、のちに参道の西側へ付け替えられ、宿場もそれに伴って移ったとされる。現在、参道と旧中山道が別々の道として並行しているのはこのためだ。
町並みは9町30間、約1.04km。各屋敷は間口が平均7〜8間(約12.6〜14.4m)に対し、奥行きが63〜65間(約113〜117m)。間口が狭く奥行きが深い短冊状の町割りは、現在の大宮のメインストリートの景観にそのまま重なる。小〜中規模の店舗が細長く並ぶ街の骨格は、江戸時代から変わっていない。
紀州鷹場本陣を勤めたのは北澤家。この北澤家の屋敷は、日本近代漫画の祖といわれる北澤楽天の生家でもあった。建物は残っていないが、大宮タカシマヤの屋上に北澤家が祀っていた北澤稲荷大明神の社が今も鎮座している。
| 本陣跡エリア | 大宮タカシマヤ周辺(さいたま市大宮区桜木町) |
| アクセス | JR各線・東武アーバンパークライン「大宮駅」から徒歩圏 |
| 主な見どころ | 武蔵一宮氷川神社・氷川参道(約2km)・大宮タカシマヤ屋上の北澤稲荷 |
| 所要時間 | 氷川神社参拝と旧中山道沿いの散策で1〜2時間 |
④上尾宿——9宿で最も小さく、旅籠は2番目に多い
上尾宿は日本橋から5番目、約38km。人口793人、家数182軒。どちらも埼玉9宿で最小だ。
ところが旅籠は41軒ある。9宿のなかで深谷・本庄・鴻巣に次ぐ4位、宿場の規模に対する比率でいえば突出している。
理由は距離だ。上尾は日本橋からおよそ10里。夜明け前の七つ(午前4時頃)に江戸を発った旅人が、1日歩いて最初の宿を探すのがこのあたりだった。宿場の大きさではなく、江戸からの距離が旅籠の数を決めた典型例といえる。
旅籠が多ければ飯盛旅籠も増える。『中山道宿村大概帳』には上尾宿の飯盛女49人と記録されている。これを目当てに川越や岩槻から通ってくる客も少なくなかった。
上尾宿には、その飯盛女のひとりの墓が残っている。遍照院の墓地にある「孝女お玉の墓」だ。越後の貧農の家に生まれ、11歳で身を売られて上尾の飯盛旅籠に入ったお玉は、19歳で参勤交代の武士に見初められて江戸へ移るが、病を得て上尾に戻され、25歳で亡くなったと伝わる。宿場の賑わいの裏側を伝える史跡だ。
上尾は街道の交差点でもあった。川越道——現在の国道16号——が加茂神社付近で中山道と交わる。旅人だけでなく物資も集まった。
現在の上尾は、旧中山道が県道164号鴻巣桶川さいたま線として残る。氷川鍬神社の正面に本陣があり、その両側に脇本陣が置かれていた。
| アクセス | JR高崎線「上尾駅」から旧中山道(県道164号)沿いを散策 |
| 主な見どころ | 氷川鍬神社・遍照院(孝女お玉の墓)・旧街道沿いの道標と石仏 |
| 浮世絵 | 渓斎英泉『木曽街道 上尾宿 加茂之社』 |
| 次の宿まで | 上尾駅から桶川駅まで約4km・徒歩約1時間 |
⑤桶川宿——山形に次ぐ全国2位の紅花産地
桶川宿は日本橋から6番目、約42km。人口1,444人、家数347軒、旅籠36軒。荷物を抱えて江戸を発った旅人が、1日歩いて日暮れを迎えるのがこのあたりだったとされる。
桶川を語るキーワードは紅花(べにばな)だ。
桶川での紅花生産は、天明・寛政年間(1781〜1801年)に江戸商人が種子をもたらしたことに始まる。幕末には、山形の「最上紅花」に次いで全国2番目の生産量に達した。紅花から取れる染料は「桶川臙脂(おけがわえんじ)」の名で全国に知られる。
紅花は宿場に富をもたらした。桶川宿には江戸や京都の商人が集まり、情報も一緒に運ばれてくる。本陣を世襲した府川家の屋敷は敷地1,000坪余、建坪200坪。当時の建物の一部が個人宅として現存している。
その紅花は、明治以降に中国産紅花の輸入と化学染料の普及で急速に衰えた。桶川からも紅花畑は消える。
復活は平成に入ってからだ。平成5年(1993年)、紅花に関心を持った市民が山形県河北町を訪ね、種子を譲り受けた。翌年、桶川に再び紅花が咲く。平成8年に第1回べに花まつりが開催され、現在は「べに花の郷 桶川市」を掲げたまちづくりが続いている。
旧街道沿いには宿場時代の建物が残る。国登録有形文化財の「武村旅館」は当時の旅籠の一軒。ほかに島村家住宅土蔵、小林家。桶川稲荷神社には、紅花商人が寄進した石燈籠がある。
| アクセス | JR高崎線「桶川駅」から旧中山道沿いを散策 |
| 主な見どころ | 桶川宿本陣遺構・武村旅館(国登録有形文化財)・島村家住宅土蔵・桶川稲荷神社の紅花商人奉納の石燈籠 |
| 紅花スポット | べに花ふるさと館(桶川市加納)/べに花畑は川田谷地区ほか |
| イベント | おけがわ べに花まつり(例年6月中旬・桶川市農業センター/城山公園周辺) |
| 見頃 | 紅花の観賞時期は6月中旬〜下旬 |
⑥鴻巣宿——約400年続く人形の産地
鴻巣宿は日本橋から7番目、約50km。町並み17町(約1.9km)は埼玉9宿で最長、旅籠58軒も9宿で3番目に多い。
この宿場は、もともと今の場所になかった。慶長7年(1602年)まで鴻巣宿は現在の北本市域にあり、幕府の宿駅整備にともなって北の市宿新田へ移されている。移設の理由には諸説あるが、北本の位置では桶川に近すぎたためという説、家康の鷹狩り用に鴻巣御殿が建てられたことと関係するという説が挙げられる。
鴻巣宿と次の熊谷宿のあいだは4里6町40間、約16.5kmある。他の宿場間と比べて長すぎたため、中間の吹上村に旅人の需要が自然発生した。これが「吹上の間の宿」だ。正式な宿場ではないが、休憩地・中継地として機能した。吹上は日光裏街道(日光脇往還)との追分でもある。
鴻巣といえばひな人形だ。その歴史は約400年とされる。起源は安土桃山期の天正年間に土人形が作られていたという説、江戸前期に移り住んだ京都の仏師が土雛を作り始めたという説がある。
なぜ鴻巣で人形産業が育ったのか。鴻巣宿が中山道7番目の宿として物流の要にあり、人形の材料となる藁や桐が豊富で、農閑期の働き手がいた——この3つが重なったと考えられている。
江戸中期には、桐などの木粉を糊で練り固める練り人形へ移行し、「鴻巣びな」として知られるようになった。着物の着せ付けは関東一という評判で、江戸の職人が修行に来たという。江戸末期には、江戸・十軒店、越谷とともに「関東三大雛市」に数えられた。江戸期に11軒だった鴻巣のひな屋は、明治には業者31軒・職人300人まで拡大している。
現在も埼玉県は節句人形の出荷額で全国1位、シェアは約46%(平成19年 経済産業省工業統計)。その中心地のひとつが鴻巣だ。
余談だが、全国で「人形」という町字名は、東京都中央区日本橋人形町と鴻巣市人形の2例しかない。日本橋は人形浄瑠璃に由来するため、人形の生産地に由来する地名は鴻巣だけということになる。
| アクセス | JR高崎線「鴻巣駅」から徒歩圏 |
| 主な見どころ | 鴻巣市産業観光館「ひなの里」・人形町の人形店・鴻神社・勝願寺 |
| イベント | 鴻巣びっくりひな祭り(2026年は2月20日〜3月7日/メイン会場:エルミこうのすショッピングモール) |
| 見もの | 日本一高いピラミッドひな壇(31段・高さ約7m) |
| 補足 | 荒川の「川幅日本一」地点も鴻巣市。川幅うどんなどのご当地グルメがある |
⑦熊谷宿——人口2位、旅籠は最少クラス
熊谷宿は日本橋から8番目、約66km。宿内人口3,263人は板橋宿に次ぐ規模で、埼玉9宿では本庄に次ぐ2位。家数は1,715軒を数える。
ところが旅籠は19軒しかない。本陣2軒、脇本陣1軒。人口規模に対して宿泊施設が極端に少ない。
これは熊谷宿の性格を示している。熊谷は宿泊業に依存せず、絹屋・綿屋といった商いで成り立った街だった。旅人を泊めて稼ぐ宿場ではなく、物と金が動く商業都市。現在の熊谷が県北の商業拠点であることの原型が、ここにある。
中山道と荒川の関係も、熊谷を理解する鍵になる。中山道は荒川を渡らない。鴻巣の吹上から熊谷手前の久下までは、荒川の土手——熊谷堤——の上を歩くルートをとる。渓斎英泉が熊谷宿を描いた『岐阻道中 熊谷宿 八丁堤景』には、奥に荒川、右上に熊谷堤が描かれている。
荒川は扇状地の末端である熊谷付近から下流でしばしば流路を変えた。「荒ぶる川」の名の通りだ。現在の流路が定まったのは、江戸初期の寛永6年(1629年)に行われた瀬替えによる。街道が川を渡らず土手を通ったのは、この暴れ川を避けた結果でもある。
宿場の中心は熊谷寺(ゆうこくじ)の門前にあたる中町で、本陣や主だった旅籠屋が並んでいた。
ただし、当時の面影の多くは残っていない。昭和20年(1945年)8月の熊谷空襲と、戦後の都市計画によって、宿場の町並みは失われた。熊谷を歩くときは、遺構ではなく地形と道筋を読むことになる。
現在の熊谷は「暑い街」として知られる。2018年7月23日に41.1℃を記録し、当時の国内最高気温を更新した。なお2025年8月5日には群馬県伊勢崎市で41.8℃が観測され、国内最高気温の記録はこちらに移っている。
| アクセス | JR高崎線・秩父鉄道「熊谷駅」から徒歩・バス |
| 主な見どころ | 熊谷寺(ゆうこくじ)・高城神社・星渓園・熊谷堤 |
| イベント | 熊谷うちわ祭(毎年7月20〜22日)。八坂神社例大祭で赤飯を振る舞っていたものが、うちわに変わったと伝わる |
| 浮世絵 | 渓斎英泉『岐阻道中 熊谷宿 八丁堤景』 |
| 暑さ対策 | 夏に歩く場合は熊谷〜深谷区間の水分補給を厚めに |
⑧深谷宿——旅籠80軒は中山道最大
深谷宿は日本橋から9番目、約78km。旅籠80軒は中山道69宿のなかで最大規模だ。本陣1軒(飯島家)、脇本陣4軒、家数525軒、人口1,928人。
なぜここに旅籠が集中したのか。江戸を出立した旅人にとって、深谷は2泊目の宿を求める距離にあたる。上尾・桶川が1泊目、深谷が2泊目という行程が成り立っていた。
商人が多く、飯盛女も多く、遊郭もあった。五の日と十の日には市が立つ。旅人と商人が混じり合う、賑やかな宿場だった。7月に行われる深谷の七夕祭りは、飯盛女の星祭りが起源といわれる。
宿場の東西の入口には常夜燈が立つ。京都側の常夜燈は天保11年(1840年)の建立で、今も旧中山道沿いに残っている。
深谷を全国区にしたのは渋沢栄一だ。栄一は天保11年(1840年)、武蔵国榛沢郡血洗島村——現在の深谷市血洗島——の農家に生まれた。
ここで補足しておきたいのは、栄一の実家が宿場の商家ではないという点だ。渋沢家は藍玉の製造・販売と養蚕を営む豪農で、栄一は幼い頃から家業を手伝った。藍の仕入れと販売のなかで身につけた合理的な感覚が、後の実業家としての土台になったといわれる。7歳頃からは隣村に住む従兄の尾高惇忠のもとに通い、『論語』など四書五経を学んだ。
血洗島は深谷駅の北西、利根川に近い一帯にある。旧渋沢邸「中の家(なかんち)」は栄一の生誕地に建つ。現在の主屋は明治28年(1895年)に妹夫婦が上棟したもので、帰郷した栄一が寝泊まりした建物だ。近くには渋沢栄一記念館がある。
もうひとつ、深谷とレンガの関係がある。栄一が設立に関わった日本煉瓦製造の工場が深谷市内に置かれ、ここで作られたレンガが東京駅の建設に使われた。現在のJR深谷駅が東京駅を思わせるレンガ調の外観を持つのは、この歴史に由来する。
新一万円札の表に渋沢栄一、裏に東京駅。その両方が深谷につながっている。
| アクセス | JR高崎線「深谷駅」から旧中山道沿いを散策 |
| 主な見どころ | 深谷宿本陣跡・常夜燈(天保11年建立)・みかえりの松・深谷駅のレンガ調駅舎 |
| 血洗島エリア | 旧渋沢邸「中の家」(深谷市血洗島247-1/深谷駅からタクシー約20分)・渋沢栄一記念館(深谷市下手計1204) |
| イベント | 深谷七夕まつり(7月) |
| 所要 | 宿場散策と渋沢栄一ゆかりの地を合わせて半日 |
関連ページ:渋沢栄一とは何をした人か?生涯・功績・埼玉ゆかりの地を解説
⑨本庄宿——人口・家数が69宿で最多
本庄宿は日本橋から10番目、約89km(江戸より22里)。武蔵国最後の宿場であり、中山道69宿のなかで最も大きな宿場でもある。
人口4,554人、家数1,212軒。どちらも69宿で1位。本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠70軒。旅籠の数では深谷に次ぐ規模だ。
なぜここまで大きくなったのか。理由は、本庄が宿場である以前に城下町であり、水運の集積地だったからだ。
本庄宿の前身は本庄城(慶長17年に廃城)の城下町にある。城に最も近い「本宿」から始まり、西の京都寄りに「上宿」、その間に「中宿」ができた。三つはのちに本町・仲町・上町と呼ばれるようになる。城下町の距離は15町50間、1.7km以上あった。
そこに利根川の水運が重なる。西国や日本海方面から江戸へ出入りする内陸の中継点として、本庄は年々機能を拡大した。街道の旅人に加え、物資を運ぶ商人・船頭・人足が集まる。人口が膨らむのは当然だった。
本庄の繁栄を象徴するのが戸谷半兵衛(中屋半兵衛)家だ。本庄宿で「中屋」を興し、江戸・室町にも支店を出した関東有数の豪商で、全国的に富豪として知られた。同時に慈善家でもあり、天保の飢饉の際には5年間、毎年50両を宿内の救済に出している。
面白いのは、これだけの規模を持ちながら本庄宿には定期市がなかったことだ。そこで近隣の榛沢村(現在の深谷市)に交渉して定期市開催の権利を譲り受け、市神も榛沢村から移している。
市街地の北西端には、中山道と下仁田街道(信州姫街道)の追分がある。現在の千代田3丁目交差点付近だ。
本庄宿から神流川の渡場までは約5.5km。渓斎英泉が描いた『本庄宿 神流川渡場』は、武蔵国と上野国の境界であるこの渡し場が題材になっている。
近代の本庄は繭の集散地として栄えた。旧本庄商業銀行煉瓦倉庫は、深谷の日本煉瓦製造のレンガを使い、イギリス積みで建てられた煉瓦造2階建て。桁行約36.4m、梁間約9.1m。平成29年から交流・展示スペースとして活用されている。深谷のレンガが本庄の建物になっている——2つの宿場は今もつながっている。
| アクセス | JR高崎線・八高線「本庄駅」から徒歩・バス |
| 主な見どころ | 旧本庄商業銀行煉瓦倉庫・本庄市立歴史民俗資料館・中山道と下仁田街道の追分(千代田3丁目交差点付近) |
| イベント | 本庄まつり(秋) |
| 浮世絵 | 渓斎英泉『支蘓路ノ駅 本庄宿 神流川渡場』 |
| 補足 | 上越・北陸新幹線「本庄早稲田駅」が南方にある |
宿場が今の街に残したもの

9宿を通しで見ると、いま埼玉で起きていることの理由が見えてくる。
中心市街地は旧街道の上にある
蕨、浦和、大宮、上尾、桶川、鴻巣、熊谷、深谷、本庄。この9市区の中心市街地は、いずれも旧中山道沿いに形成されている。
理由は単純だ。宿場には本陣・脇本陣・旅籠・問屋場・茶屋が集まり、そこに商人と職人が集積した。人と物が集まる場所がそのまま商業地になり、明治以降も中心であり続けた。
大宮宿の間口が狭く奥行きの深い町割りが、現在の大宮のメインストリートの景観にそのまま重なることは先に触れた。街の骨格は、400年前に決まっている。
現在の道路との対応関係も整理しておきたい。浦和から鴻巣にかけての旧中山道は、県道164号鴻巣桶川さいたま線として現存する。国道17号は加茂宮駅西で旧中山道と一度交差したあと東側を並走し、桶川を越えて熊谷駅東で再び交差する。JR京浜東北線と高崎線が中山道をなぞるように走っているのも同じ理由だ。
毎日の通勤路が、江戸時代の旅人の道と重なっている。
産業は宿場から生まれた
宿場が残したのは商業地の位置だけではない。
浦和のうなぎは、宿場を訪れる旅人に近郊で捕れたうなぎを出したことに始まるとされる。鴻巣の人形は、街道の物流と材料の入手しやすさ、農閑期の労働力が重なって産業になった。桶川の紅花は、街道を通って集まる商人が売り先を作った。深谷のレンガは、渋沢栄一という一人の人物を通じて東京駅にまで届いた。本庄の繭と絹は、利根川水運と街道の交点だから成立した。
いずれも「街道があったから生まれた産業」であり、いずれも現在まで残っている。埼玉の地場産業を遡ると、かなりの確率で中山道に行き着く。
中山道・埼玉区間を歩く
約75kmを一度に歩く必要はない。JR京浜東北線と高崎線が並走しているため、区間ごとに区切って歩き、電車で帰れるのが埼玉区間の利点だ。
区間と所要時間
| 区間 | 距離 | 所要時間の目安 | メモ |
| 蕨宿〜浦和宿 | 約5km | 約1時間15分 | 平坦。宿場の町並みが最も残る区間 |
| 浦和宿〜大宮宿 | 約6km | 約1時間30分 | 商業地が続き休憩しやすい |
| 大宮宿〜上尾宿 | 約8km | 約2時間 | 県道164号沿い。氷川参道と合わせて |
| 上尾宿〜桶川宿 | 約4km | 約1時間 | 9宿間で最短。初めての一区間に向く |
| 桶川宿〜鴻巣宿 | 約8km | 約2時間 | 6月は紅花の時期と重なる |
| 鴻巣宿〜熊谷宿 | 約16km | 約4時間 | 最長区間。吹上の間の宿・久下の長土手を通る |
| 熊谷宿〜深谷宿 | 約12km | 約3時間 | 平坦。レンガの景色が始まる |
| 深谷宿〜本庄宿 | 約11km | 約2時間45分 | 終盤。本庄から神流川橋まではさらに約5.5km |
※徒歩4km/hで計算した目安。休憩・見学時間は含まない。
初めて歩くなら、上尾〜桶川(約4km)か蕨〜浦和(約5km)を推奨する。半日で終わり、宿場の遺構がまとまっている。
道しるべになるもの
旧中山道の目印は3種類ある。
一里塚跡。 前砂(13里目)、久下(14里目)、八丁など、県内には一里塚の跡が点在する。多くは石碑や案内板だけだが、道が正しいことの確認になる。
道標と石仏。 旧街道沿いには「中山道」と刻まれた道標、馬頭観音、地蔵が残る。分岐で迷ったときの手がかりになる。
常夜燈。 深谷宿の常夜燈(天保11年建立)のように、宿場の出入口に立っていたものが現存する例がある。
Google マップで「中山道」を検索すると埼玉区間のルートがほぼ表示されるため、これと現地の道標を併用するのが確実だ。
歩く前に知っておきたいこと
旧中山道の多くの区間は、整備された遊歩道ではない。県道164号や国道17号旧道と重なる生活道路で、歩道が狭い区間や、交通量の多い区間がある。車と自転車には常に注意したい。
季節も選びたい。熊谷から深谷にかけての区間は、夏場は特に暑い。江戸時代の旅人にとってもここは楽な道ではなかった。真夏を避けるか、早朝に歩き始めるのが現実的だ。
持ち物は、歩きやすい靴、飲料水、タオル、日焼け止め。コンビニは随所にあるため食料の心配は少ない。宿場の見どころは幹線道路から一本入った路地にあることが多いので、時間には余裕を持ちたい。
まとめ
蕨・浦和・大宮・上尾・桶川・鴻巣・熊谷・深谷・本庄。9つの宿場が、戸田の渡しから神流川までの約75kmを支えた。
それぞれ性格が違う。川留めに備えて本陣を2軒持った蕨。旅籠15軒で市場町として栄えた浦和。脇本陣9軒という69宿最多の受け皿を持った大宮。9宿で最小なのに旅籠41軒の上尾。全国2位の紅花産地だった桶川。人形の産地になった鴻巣。人口2位で旅籠19軒という商業都市だった熊谷。旅籠80軒の深谷。人口・家数ともに69宿1位の本庄。
この違いは、江戸からの距離、川との位置関係、周辺の産業によって決まった。そしてその多くが、いまも街の性格として残っている。
毎日使っている駅前の通りが、かつて旅人が宿を探した道だった。その事実を知るだけで、見慣れた景色の解像度が少し上がる。
区間は短くていい。自分の住む街の宿場から、一歩だけ歩いてみてほしい。
兵庫県神戸市出身。都会の喧騒を離れ、たどり着いた新天地・蒲生(越谷市)で第二の人生を謳歌する元商社マン。 長野出身の妻、そして年子(0歳・1歳)の育児に奮闘しながら、越谷の心地よさを日々実感しています。満洲の餃子をこよなく愛する、自称・越谷の関西代表。